私の実家あたりの方言で、「あったらもの」というのがある。
「あったなもの」と言うと「あんなもの」という意味だが、「あったらもの」は意味が違う。
一緒に住んでいた祖母が「あったらもの~!」と言うのをよく聞いた。
そういえば高校の頃、古文の枕草子の話の時、「あたらしきもの」というのがあった。
「あらたし」なら「新しい」だが、「あたらし」だと「もったいない」になるのだという。
方言での「あったらもの」は「もったいない」という意味なので、古文とのつながりが面白いと思った。
昔の言葉と今の言葉は全然違うものではなくて、脈々とつながっているのだと。
ところで、私は40年間岩手に住んでいた。
札幌に引っ越して5年になる。
もちろん、岩手にいたときも、実家にいたのは高校までで、その後は大学に入って盛岡へ行き、就職して盛岡近辺に住み、転勤で沿岸北部へ行った。
微妙に方言が異なる地域である。
大学に入ったばかりの頃は、様々な地域から来た人との交流があるために標準語を使うように気をつけていた。
「米をうるかす」とか「ゴミなげる」とか「水まかした」とか「お風呂かます」とか「目がいずい」とか、通じない言葉も多かったし。
※東北人になら通じる言葉ではある(^_^;)
そうしたら、なんだか性格というか行動が言葉につられてしまったような、そんな変な感じがあった。
なんというか、方言でないから自分をうまく表現できないというか、気持ちと言葉が離れているというか…。
「言霊」という言葉があるけれど、方言で微妙なニュアンスを表現できない自分というのは、口から出た言葉の方に引きずられて行った感じだろうか。
実家へ帰ったときに方言を聞いて、気持ちがホッとすることがあるように。
方言でホッと出来ない心というのは、どんどん鎧ってしまうものなのかもしれない。
完全には打ち解けられない心。
打ち解けたようでいて、本当のところはそうでないチグハグさ。
たぶん、あの頃の自分というのは、自覚はなかったけれどそんな状態だったのだろう。
先日、あさイチで「方言の力」とか「方言のすごさ」を取り上げていた。
震災後、避難先で方言が通じない土地で、外出も控えるようになってしまった方たち。
そんな方たちも、同じ地域の人達が集まる体操教室で方言を聞いて笑ったり、方言を使ったラジオ番組などでホッとしたり。
…
若いころなら、まだいい。
歳を経てから、言葉が通じない地域・言葉が通じない人たちの中に行く勇気がどんなものか、分かるような気がする。
震災の被害のニュースを見るたび、今は亡き義母が「避難したらいいのに」と言ったけれど、そんなに簡単なことじゃないのにな…と思った。
そう思って、でも、どう言ったら分かってもらえるのか分からなくて、口をつぐんでしまったけれど。
住んでいた場所から去るだけではなく、方言が通じる人たちから離れることとか。
言わなくても分かり合える風習が、通じない地域に行く不安とか。
※私の実家の辺りでは、餅は「あんこもち」から食べ始め、最後は「おつゆもち」で終わる。
「おつゆもち」を食べだしたら、その人は食事が終わりだな…と分かる。そんな風習とか。
当たり前が当たり前でなくなるのだから。
「きゃっぽりしたー」と言えば、水たまりとか田んぼとかで、とにかく靴に水が入った状態になったことだと分かってもらえるとか。
「おがぞうり、はがいん」と言ったら、「スリッパ履きなさい」という意味だと分かってもらえるとか。
「右目いずい」と言ったら、右目がなんだか痛くはないけど居心地が悪いというか違和感があるというか、変な感じだ…という意味だとか。
説明しないと通じないのは、なんだかしんどい。
微妙なニュアンスが通じないのは、自分を理解してもらえていないようで不安がある。
お歳を召した方なら、なおさらだろう。
そんなことを思うのだった。
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